昭和46年02月23日 朝の御理解



 御理解 第88節
 「昔から、親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬ様にして家を治めよということである。」

 私はこの八十八節を頂きます度に思うのですけど、八十八節といういわば八に八が重なると言うのですから、もう開きに開けると言う風に感じるのです。いわゆるおかげにおかげの花が咲くと言った様なおかげを頂く為にはと思うのです。八十八節を頂きます前に先ず、そんな風に思うんです。ここんところが出来たらおかげにおかげの花が咲く、と開きに開けて行く道がね、そこに約束される。お互いがおかげを頂きたいです。この世だけではありません。
 この世で受けたおかげが、そのままいよいよあの世にも開けて行くおかげが頂きたいです。その為にはここのところが良くマスターしておかねばいけません。此処には嫁入りをする娘さんに対して教祖様が与えて下さった御理解ではないでしょうかね。けどもそれをこの中から例えば心に辛い悲しいと思う時とこういう風に言われます。心に辛い悲しいと言う事は必ずしも嫁さんばかりの筈は有りません。
 男も女も誰でも、矢張り辛い苦しいとか思いをする事がありますから、これは必ずしも嫁入りする前の娘さんに対する事だけではないとして頂かなければならんと思うですね。そこで心で辛い悲しいと言う言をね、ごまかしただけでは本当なものになって来ないですよ。いわゆる作り笑いではいけんのです。何でもない様に装っても何処かに出て來るものです。心の苦しいことやら悲しい事は出て來る。
 そこで鏡を立ててと、いわば教えの鏡を立てて、日頃頂いている御教えをひもといて見よと、そこにはちゃんと開ける道というか、心が治まるというか、おかげを頂かせて貰えれる心の状態と言うものがですね、新たに生まれて來る。そこには悲しい、腹立たしい涙の出る様な感じが、喜びの涙が流れる様なおかげになってくるのですからね有難いです。昨日、或るお取次をさせて頂いたんですけどね。お話を聞いておって本当に歯痒いことだなあ、どうして分かんなさらんとじゃろうか。
 どうして分からん事じゃろうかと思う様なお取次をさせて頂いた。お取次を願う者は尚更信心させて頂いておる。お取次を願う問題がそれも此処に御神縁を頂いている人達なのです。あれだけ打ち込んで信心しよって、日頃の事は何処にやっているだろうかと歯痒い事ね。情けない事ねと私が思う様なお届けの内容でした。そこで私も此処ではお取次させて頂いて、その人に同情してから、本当にどうした事じゃろうかねとその話の内容がつまびらかにお話出来ん言が残念ですけども、どうぞ想像しながら頂いて下さい。
 そして頂き終りまして本当にその人も腹立たしいというか、歯痒いというか情けないと云うか、それこそ、涙こぼさんばかりにお届けさせて頂くから、私もそういうまどうした分からん事じゃろうか、信心がなからなけど、信心頂いておって何と言う事かと思いながら頂いた。けれどもそういう時に教えの鏡を懸けさせて頂いた。そればって今朝の御理解をあんたも頂いただろう。
 昨日の朝のね、肉眼で見る世界ではなくて、心の眼をもって見る世界、信心させて頂くものは、より何時も本当の事が分からせて頂きたいと言う願い、肉眼をもって見る世界には、成程あなたが言う様に私も肉眼的にそれを聞いたりするとまあ歯痒い事になるけれどね。また腹立たしいことにもなるけれどもね。誰に聞かせてもそうだろうと思うけれどね。心の眼をもって覗かせて頂くと〇〇さんむしろ本当にその人は私の為に幾人もの、今あんたが名前を挙げた幾人もの人がね。
 貴方の為に使われたことになるというたら、もう今迄の歯痒かったのが情けなかった涙がね、本当にそうでしたと有難涙に変わってくるですから信心ちゃ有難いでしょうが。そうしてその方に申しました。今迄歯痒い情けないと思うておったその事がです、いわば心の眼をもってしたらそれは有難いことであり、その人達は私の心を育てて下さる事の為に神様に使われて御座ったと分かった時、その人達に相済まんとか礼をいう心すらが起こってきた。いわば心が治まった。
 さあ今迄はヒステリックに引きつった顔が有難い表情に変わって行く程しのおかげであった。私何時もお取次させて頂いてね、お取次者冥利に尽きるとお取次させて頂く者冥利に尽きる一時なのです。そういう時が有難いなあと思います。教えの鏡を立てたらね、もう全ての事がそういうことにならねばいけんのですよ。そこに貴方自身の助かりがある。そこには今貴方がいうておったその人達迄も助かるのです。助かるキッカケが出来るであろう。あんたがその心で祈ったならばと言ってお話したことです。
 だから先ず家を治めよというても、自分の心が治まらずして家が治まる筈が無いと言う事です。金の力で治める人もある。権力をもって治める人もある。けれども権力でも金の力をもってしても出来ない問題がある。先ず自分を治める稽古。その為には本当の事を分からせて頂く外にはない。いわゆる心の眼をもって見せて貰えれるおかげを頂くより外にはない。肉眼をおいて心眼を開かせて頂く稽古を一生懸命に精進する以外にはない。そう思うですね。
 昨日はむつ屋の信司さんの妹に当たるだろうか、妹に当たるでしょう。此処の若先生と友達ですから、高校二年生で亡くなられました。その丁度十年の式年祭があった。兄弟達皆集まって実に有難いお祭りを奉仕させて頂きました。式年祭で。もうそれこそ亡くなる一寸前に、福岡県の健康優良児で表彰受けたんです。という程に強い、もう堂々たる体格で立派でした。
 それが不思議な不思議な病気であっという間に亡くなったんです。本当に人間の健康などと言った様なものが如何に当てにならないかと言う事を感じないわけには行かない様な事でした。その人が亡くなりまして十年間、昨日私お祭り、もう神撰が出来とりました。見事に出来とる神饌を見せて頂いて、一番手前の真中にケーキがね、ケーキのお供えがあっとりました。これは誰がお供えしたとか、誰か分からんけれども、お誕生日お目出度うと書いてある。
 御霊さんの前にお誕生日お目出度うなんて誰が誕生日に頂いたのをお供えしたんじゃろうかと要ったですけど、段々思わせて頂いて、あああの人があの世に誕生して十年お国替えをすると言う事は、人間が死ぬると言う事は、あの世への誕生だと教祖は仰った。それは肉親の者が血肉を分けた者からいえば、別離の悲しみと申しますか、何年経っても悲しいことでございますけども、本当の事いうたら、あの世へ誕生すること。
 成程あの世に誕生して十年、成程誕生日お目出度うと言わなければおれない程しに御霊がおかげを受けておると言う事なんである。御霊の世界の事は云うても、けれども矢張り神様を信ずるなら御霊の世界も信じぬ訳には参りません。又信じなければ神様信心は成り立ちません。いわゆる年々歳々御霊としての位も進み、御霊としての力も受けておる。成程誕生おめでとう、それこそどんなに偉そうな生活して居った人でも御霊の世界ではそれこそ、苦しみ抜いている御霊も沢山有ります。
 花で言うならば、つぼみの時代ですけれども、親達の信心、兄弟達の信心に依って段々おかげを頂いて力を受けて行っておる御霊様の十年の式年祭を奉仕させて頂いて、お誕生日お目出度うといわねばおられない程そのおかげを頂いて居る状態をね感じさせて頂いて、信心ちゅうものは有難いもんだなと。そこで、ならこの世で力を受けておくと言う言が大事だという話をさせて頂きました。
 力を受けると言うことはどう言う事かと、これは昨日の事でございましたことですけど、今お金のさいかくに一生懸命になってある方が有る。その方にお金の都合をして上げ様とこういうわけである。そしてお取次頂いてと言う事であったから、そりゃあ有難いことだと思いましたけれど、それをお取次させて頂きましたらね、ちょうど私の心眼に頂きますのはね、丁度歌舞伎であります、あれは何という題ですか、平知盛か入水するところの場面がありますがね。
 源氏との戦いに敗れて自分で入水するところ、大きな碇を頭の上まで差し上げて鎖を自分の体に巻いてそのまま入水する。成程その人に金の金策をしてあげられる事は良いけれども、それが碇の様な事になったらどうするか。却ってそれが重荷になるというか、それが為に身動き出来ないようになったら、どうするか持てる力を持たないんだもんその人は、持つ力を。それよりか苦しいけれども持てる力を、例えばその方が本気で培って行かれるというか、鍛うて行かれるというかとの願いの方が先ではないかと。
 親切も過ぎればかえって及ばない様なことになるのだ。その親切をもって神様に上げられたらどうですかと、頂いたお知らせを申し上げたことですけどね。ですから力無しではね、実際お金も持てない。物でも同じこと白真剣私共の持てる力、持てる力を先ず頂かねばならん。力もないのに物だ金だと云うておっては、それがかえって重荷になって苦しむ。そういう時にです、私共が辛い悲しいと思う時鏡を立ててその事が自分の思うようになると言うことでなくてです。
 肉眼の世界から心の眼の世界と云うものを、覗かせて頂く時にそれこそ、知らなかった知らなかったと言う事になるのです。本当の事が分からなかった、その事に只握せくとしておる。どうした歯痒いことであろうか、情けないことであろうかと、ばっかり思うておったけれども、そういう苦しいとか悲しい事実をもって神様が分からせて下さったことは、その人もその事柄も、その問題も私の心の目を開かせて下さろうとする神様の働きであったと分かる時に、苦しいことは苦しいことではない。
 悲しいことは悲しいことではない。有難いことになって來る。そういう稽古が力を受けて行くことだと思うのです。そういう体験こそが心に力を頂かせて貰う、普通でいうなら悲しい辛い思いだけれども、その人にとっては有難いことになって來る。その有難い顔をいつも見せて行けれることになります。そこに心が治まることが先ず先決で、心が治まるおかげを頂かなければ、家は治められないと言う事になるのです。
 心の力と云うものはね、その様にして出来て行くもんだと思う。ですからそういう心の力を頂かせて頂こうとするそのチャンスというものは心懸けておけばいつも有るものです。先日聞かせて頂いた話なんですけど、大変な億万長者、ですから自分が使おうと思うならば湯水のごと使える身分なのである。その方と一緒にキャバレーかバーに行かれる。さあ、億万長者の旦那さんというので女達が一杯集まってきた。
 そこでその人は大判振舞いと言うわけではないでしょうけれども、ポチ袋に何程(なにがし)の金を入れて皆に配った。いわゆる金の力に物言わせて、ところが開けてみたら中に百円宛入っておった。それでそれこそ女達がね言うならば、つばも掛けん様になって来たというのです。これでは金でも力にならん事が分かりますね。かえって軽蔑される。付いて來る者まで皆はねられて仕舞う。私は思います。先ず心に力を受けての金であり、物であり又は権力でなからなければならん。
 権力でもってしても、成程権力で抑えれば抑えられんことはないでしょう。けれども心から心服させることは出来ません。人の心はどうにも出来ません。権力やら金やらでは買うことが出来ません。心の力を頂いてこそ、初めて権力がお金が初めてものをいうて來るのです。そういう汚い沢山の金を持っておっても、汚い使い方をする人に金が力になってくる筈が無い。ところがまだ金の自由が利く。金が有るところにはまだ迷いの夢が覚めない、分からない。
 そこで私共が金に不自由する時に本当に目が醒めなければいけません。いわゆる心の目が醒める。それは肉眼の目でなくて、心の目が醒める。そこから本当な事が分からせて貰う。中々辛い悲しい時にはあまり辛い悲しい事が目の前にありますと鏡を立てるゆとりを失います。私共はそういう時にお取次を頂く。そこから日頃頂いておる御教えを、又新たに頂くことから、昨日お取次させて頂いた様に歯痒いことだな、情けないことだなと思う心がです、その人の心の上に有難い心が出来てきた。
 いやむしろ、御禮申し上げねばならないところまで高められて来た。そこにその人の心が治まる。そういう心が治まった状態をもって、私共が様々な信心生活に入らせて頂くと云う体験。そういう体験を積みながら信心生活に入らせて頂くと言う事。いよいよ心に力を受ける事になる。その力がこの様に私共の幸せの鍵であると同時にあの世にも持って行かれる、力にもなる訳なのですから、本当に辛いとか、悲しいとかと云うことが、何時もある訳ではない。そういう時に本気で心の目を開かせて頂く精進をさせて頂かにゃならんと思いますね。     
   どうぞ。